小川忠太郎先生剣道話(49)~「死」の一事、ねずみ小僧~
鍛えておけば、どんな問題だって解決できる。
これ(生死の問題)は頭では解決出来ない問題だよ。 みんなは、今一番大事な時だ。
ただ、この問題は催促がない。 食欲は催促がある。 催促があれば食べるでしょう。 生死の問題は催促がないから、放っておけばそのままいっちゃう。 そして、ぶつかった時に慌てる訳なんだよ。 催促はないけれども、根本問題だから、自分でよく考えてね。 死ぬこと一つ研究しても生きられるんだね。 たいしたものだ。 あれほどの山岡先生(山岡鉄舟)が、鼠小僧の話を聞いて感心している。 打ち首になる時、首切り朝右衛門が斬れなかったってな。 三度目にやっと斬った。 鼠小僧の態度がどんなだったかというと、そこへ来て、ただ「お願いします」と言った。 山岡先生は、「わしの剣は、鼠小僧に及ばない」と言った。 死の位置でもそんな上がある。 慌てて死ぬぐらいは誰でもやる。 森の石松だよ。 森の石松とは違う。 首切り朝右衛門が斬れない。 「死」の一事でそうだ。 木村篤太郎(大正・昭和期の弁護士、政治家、剣道家。全日本剣道連盟の初代会長を勤めた)さん。 現在96だよ。 3年前、「私も93だが、鼠小僧のような訳にはいかない」と言ったよ。 木村さんも、そこを研究しているんだね。 研究しているから元気があるんだな。 問題を持っているから。 修行しているわけですから。 「死」の一事。 今96歳で、まだ社会に通用するんだ。 そういう本当の事を研究していると、そのこと自体で生き甲斐になるんだね。 そういう「死」は単なる死じゃない。 生死を超越したものだ。 「死」という言葉で表現するのはおかしいかも知れない。 剣道だってそうだ。 相手の前にその気持ちで「ズッ」と立てばなんでもない。 ところが、その気持ちでないから、相手の竹刀が邪魔になる。 なんでもありゃしない。 形のように、本当に切り落としの精神で望んでみればなんでもない。 「切り落とし」ということを、言葉の上で分かっている。 所作としては分かっている。 しかし、これが本当に身に付くということは容易じゃない。 身に付いていない証拠が稽古に現れる。 そういうふうに反省して稽古すれば為になる。 昭和56年11月 (『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より) タイトル、構成、()内…栗山令道
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