小川忠太郎先生剣道話(15)~三昧になれば切り込める~
柳生流の柳生石舟斎が、名古屋の柳生流の初代、柳生兵庫に口伝として与えた秘歌、【切り結ぶ刀の下こそ地獄なれ ただ切り込めよ神妙の剣】。
ここで修行する要点は「ただ」という所。これを自得しなければいけない。「ただ」切り込んでいく。普通の人は切り込む前に何か考える。それは「ただ」じゃない。
もっとひどいのになると、切り込む前に堅くなる。
禅の言葉で言えば、「三昧」。三昧になれば切り込める。
だから、今の学生のようにスピードで「当てっこ」をしていては駄目なんだ。
「ただ」切り込む。曹洞宗は、これが極意。「只管打坐」。「ただ」座ればいい。散歩する時は、「ただ」散歩すればいい。飯を食う時は「ただ」飯を食えばいい。勉強する時は「ただ」勉強すればいい。これが只管打坐。三昧。
剣道だってこれから外れるものじゃない。
やってみると出来ないだろ。何もしないで構えているんだけど、出来ない。「凝り」になっちゃう。凝るということは三昧じゃない。
これは、説明すればするほど、そのもの自体から遠ざかっちゃう。だから、これは百練自得。だから「行」がある。剣道の「行」がね。
一所懸命やって、苦しくなって乱れるのは三昧じゃない。どんなに苦しい中でも三昧はある。これを「窮しても乱れない」と言う。
剣道はこの修行なんだ。
どんなに窮しても乱れない。三昧を取り失わない。ここをしっかりやる。
「ただ」切り込む。分かるでしょう。だから一所懸命やる。また、これが我々の私生活でも根本になる。
三昧。「ただ」。僕らだってこれをやってる。これには終わりはがない。これは無限だ。
(以下、次回に続く)
昭和55年3月
『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より
令道 記
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