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「先」までいくと、禅と一致する(下)~小川忠太郎先生剣道話(65)~

今日、〇〇さんに、2回目の初太刀で面を打たれたね。あれは捨て身になっていた。しかし、それが続かない。2本目は「突きに行こうか」と思うから、もう行けない。 思ったらダメ。「先」ということは、思慮分別にわたっちゃダメなんた。だから、これは難しいんだ。 それじゃあ無意識がいいかと言うと、そうじゃない。無意識でもなく、有意識でもない。 それを皆さんが修行する。打たれたっていい。ただ、そういうところを修行する。これが剣道の一番大事なところ。 もうみんな、地稽古で「先」の修行が出来るところまで来ている。そのもとになるところは「一足一刀の間」なんだ。 一足一刀の間で、打とうとか打たれまいとか、思慮分別が出て、気が止まるのを「後手」という。 思うから「後手」になっちゃう。そこが修行なんだ。「先」までいくと、これは禅と一致する。


「両鏡相照らす」というのは、「先」だ。そこにはなんにもありはしない。「ズーーッ」と。 地稽古と形で、そこをしっかり修行する。

〇〇君が一本も当たらないのは、ここへ入って来ちゃうからだ。もっと、切り返し・掛かり稽古で刀法と心法を練らないと。負けまいとするのが邪魔している。

〇〇君は、構えておって、粘りがある。そこは非常にいいね。柔らかで。あれはいいよ。切り返し・掛かり稽古で下半身がもっとしっかりしたら、たいしたものだ。 まだ、下半身がふらふらしてる。下半身がしっかりして、「ズッ」と乗るといいね。構えが「先」に変わるところ。

文覚正人が、【本無より そろりと抜けて釈迦の利剣を振るうべし 天下(てんが)自在なり】と言っている。 「本無」から「そろり」と抜けていくところ。「スーッ」と抜けて、これが技に変わる。こうでなくちゃいけない。そのためには、切り返し・掛かり稽古をもっとやらなくちゃいけない。

〇〇君が良くなった。これは、ひとつは坐って(座禅して)いるからだろう。現在に「居着いて」いない。

〇〇先生は、歩いて来るから、ポーンと打たれる。宮本武蔵のように、「地獄」の「ここ」で出てしまえばいい。

切り返し・掛かり稽古で練っていないと、出ようと思っても出られない。ここから出ることを覚えると剣道で「先」の修行が出来る。これが剣道の心法ですからね。

体の法、刀法は、切り返しと掛かり稽古で練る。そして、心法は、地稽古と形で練る。 今日は、そういう話をしました。

昭和57年3月28日 宏道会剣道場述 (『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より)


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