「剣豪の人間形成(10)二天一流 宮本武蔵(下)」
Ⅰ 宮本 武蔵 Ⅲ 寛永11年(1634年)武蔵51歳の時、養子伊織と共に小倉に現れる。武蔵は終生妻帯することは無かったが、出羽国で行き合せた孤児の伊織を養子としていた。この伊織を小倉の小笠原家に士官させた。寛永14年(1637年)に伊織は武蔵と共に島原の乱に従軍。伊織は小笠原忠真の指揮監として出陣し、後に4千5百石を領する家老職にまでなる。 寛永17年(1640年)武蔵57歳の時には肥後の細川忠利に招かれて客分として熊本に赴く。忠利は武蔵と小次郎に仕合をさせた細川忠興の子であり、母は明智光秀の三女細川ガラシャ。 翌寛永18年忠利の求めに応じ「兵法三十五ヶ条」を書く。これは武蔵の兵法を筆に記した最初の書となる。忠利は沢庵禅師と親交があり、柳生宗矩から柳生新陰流の免許皆伝を許され「兵法家伝書」を授けられている。これらの事実から武蔵に「兵法家伝書」を見せたうえで武蔵独自の兵法観を示すよう求めたものと思われる。 寛永19年細川家菩提寺泰勝寺の春山玄貞和尚から「二天道楽」の法号を与えられる。それにちなみ自身の流派を「二天一流」と名付ける。この年武蔵が頼りにしていた細川忠利が急逝する。武蔵は落胆に暮れ世を捨てて詩歌、茶、書、彫刻などに没頭した。 寛永20年(1643年)武蔵60歳。10月霊巌洞にこもり、「五輪書」を書きはじめる。 正保2年(1645年)武蔵の病がこのころ次第に重くなり、死期を知り門人の寺尾勝信に「五輪書」を、寺尾信行に「兵法三十五条」を贈った。最後に自戒の書として「独行道」を書き、これを辞世の書とした。5月19日居宅にて病没。享年62歳。 霞山 記
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