「剣豪の人間形成(1) 一刀流開祖 伊藤一刀斎(上)」
「剣豪の人間形成」 という題で掲載いたします。
一刀流開祖伊藤一刀斎から始めたいと思います。
是は、大学開放講座で講義する予定で剣道関係者にお願いして作り上げたものですが、未だに開講予定がありませんので、少しずつですがブログに掲載させて頂きます。
伊藤一刀斎景久 伝記
一刀斎の経歴は異説が多く、どれが正しいか拠り所がない。(インターネット ウィキペディア)以下は、『一刀流極意』(笹森順造著)による。(この内容は、一刀流を継承した小野次郎右衛門忠明に伝わり、書き残されたものと考えられる)
1550年(天文19年、永禄3年との説もある)8月5日 出生
出生地 伊豆大島
父 伊藤弥左衛門友家 母 不明
家系 伊藤入道景親の後裔で幼名を前原弥五郎と称した。生来骨格が逞しく8歳で漁業に従事していた。
1564年(14歳)大島脱出 伊豆上陸 一放との初勝負
弥五郎は大島脱出を企て、板子一枚を携え単身海に飛込み、泳いで伊豆に上り、三島に至り三島神社の床下に起居していた。その頃三島に富田越後守重政の門人で富田一放という刀術者がいて暴威を振るっていた。
富田越後守重政(とだ・えちぜんのかみ・しげまさ)(1554-1625)
前田利家に仕えていた。天正11年(1583)の末森の合戦で手柄をたて、景政の娘を妻とする。そして富田姓を名乗り富田流を継ぐ。
弥五郎は、この一放と三島の祠官織部の許に立合い打ち負かした。(一放は油断し遠間から肩先から袈裟にかけ打たれ、とあるので木刀で立ち合ったか・・・)織部祠官から瓶割刀を授かり、意趣返しに来た残党7人をこの刀で切りまくり、最後の一人は瓶の後ろに逃れているのを瓶諸共に真二つに斬った。
<鐘巻流を修得>
弥五郎は江戸に上り、中条流の達人鐘巻自斎通家に就いて中条流の小太刀や自斎の工夫による中太刀を学んだ。弥五郎は日夜一心不乱に鍛錬の功を積んだので、幾年(5年)もたたないうちに技大いに上がり、師の前に出て『私はいま御流儀の妙所を会得したからお暇を頂きます』と述べたが、自斎が肯がわず、自斎と弥五郎は木刀で三度立ち合ったが三度とも自斎は勝つことができなかった。
自斎は深く感心して、自流の極意である五点(妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣)を悉く弥五郎に授けた。弥五郎は、後に一刀流の最高位にこの五点を置いて尊んだ。
霞山 記
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