「剣豪の人間形成(3) 小野次郎右衛門忠明(上)」
小野次郎右衛門忠明 始めは、母方の姓を名乗り、神子上 典膳 吉明(みこがみ てんぜん よしあき)であった。 出生地:伊勢 (父)神子上土佐守 (母)小野姓 3人目の男子 家系:父祖代々、大和国の城主十市兵部の後裔で伊勢に住んでいたが、後に上総国に移り、万喜少弼(まんきしょうひつ)に仕えていた。 (万喜少弼 出所:インターネット「『信長の野望 嵐世記』武将総」)
土岐為頼(1523-1583):里見家臣。万喜城主。家中屈指の戦上手といわれ「万喜少弼」と呼ばれて畏れられた。第二次国府台合戦後に里見家を離反、北条家に属して里見家と戦った。 少弼:律令制で、弾正台(だんじょうだい)(非違の取り締まり、風俗の粛正などをつかさどった役所)の次官(すけ)。大・少各1名。
他の説(出所:インターネット ウィキペディア)) 安房国(現千葉県南房総市)に生まれる。はじめ里見義康に仕え天正17年(1589年)11月、里見家の家来として万喜城攻撃に参加。正木時堯(正木大膳)と一騎討ちをしたが決しなかったと『里見代々記』にある。 弱冠で武芸が群を抜き三神流の剣術に長じ自ら恃むところがあった。 1582年(17歳)一刀流の祖となる伊藤一刀斎影久が上総を訪れた時に立会い、負け、入門。翌年より武者修行に従う。 伊藤一刀斎影久が遇々上総に来て宿の前に高札を立て「当国に於いて剣術に望みある人あらば来て我と勝負せよ」と認めた。典善が勝負を求めると一刀斎は、快くこれに応じた。 典善の太刀に対して、一刀斎は燃えさしの一尺五六寸程の薪をとり相対した。典善が脇構えによって進み寄ったが、一刀斎は典善の刀をわけもなく奪い取って脇の薪棚に乗せて奥に入って行った。典善がもう一度仕合を望んだ。一刀斎は奥から出てきて「若い者は稽古が大事だから幾度でも相手になってあげよう。そなたの体に疵をつけるようなことはしないから、安心して打ち込んできなさい」と前の薪をとり立ち会った。 典善、今度は木刀取り、力のあらんかぎり打ち込んだが、その度毎に何辺も何辺も木刀を打落され、一刀斎の衣服にさえ触りえなかった。 典善は家に帰り一夜思いめぐらしてみるに一刀斎は全く神の如く水のごとくで、これは氏神の化身であろうと感服し、翌朝一刀斎の宿を訪ね「弟子となりたい」と懇願、一刀斎は典善の将来を嘱望して入門を許した。 霞山 記
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