「剣豪の人間形成(5) 無住心剣術 針ヶ谷夕雲(上)」 針ヶ谷 夕雲(はりがや せきうん、生年不詳 - 1669年(寛文9年)) 江戸時代初期の兵法家、剣客。無住心剣術(夕雲流)開祖。 名は正成。通称、五郎右衛門。夕雲と名乗ったのは、晩年である。 Ⅰ経歴 上野国針ヶ谷(旧埼玉県大里郡本郷村、現深谷市)に生まれる。 真新陰流剣術(新陰流系)開祖の小笠原長治(源信斎)が中国(明)から帰国して後の門人といわれる。無学文盲だったといわれているが、武術を十数流を学び、四十歳ごろまでは、学んできた流派の刀法を守っていたとされるが、その剣風は「身丈は六尺、力は三人力あったという体格と体力があったため、気力と体力にまかせ、刃引きしてある刀で多人数を相手に片っ端から叩き切る」という凄まじいものであった。 刃引きの刀にしていた理由は、「刃がついていると大勢を相手に戦うとき途中で刃がこぼれ、引っ掛ったりするので最初から刃をつけずに叩き殺すほうが良い、脇差は切腹するときの用意によく研いである」と述べていて、凄まじい豪気のほどが察せられる。生涯52度の試合で不敗だった。 経緯は不明だが、本郷駒込の天澤山龍光寺、虎白禅師のもとで参禅するようになり、自身の考案した「相抜け」の境地の前では、それまでに学び得た刀法「八寸の延金」(小笠原長治が発明)等のことごとくは虚構に過ぎないとして流儀を捨て、自性本然受用の勝理を自得したとされる。
いわく、「兵法を離れて勝理は明らかに人性天理の自然に安坐するところに存する」というもので、刀の勝負より心の勝負を説いたものとされる。虎白はその剣を「流というべきやうもなければ、名もなし、名づけば無住心剣術と云わんか」と言い「金剛般若経」から取り「無住心剣」と命名した。 生涯、主取りすることなく浪人のまま過ごしたが、紀州藩から内証扶持をもらっていたとされる。晩年は江戸八丁堀に住み、寛文9年(1669年)に60余歳で没した。 霞山 記
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