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剣豪の人間形成(6) 無住心剣術 針ヶ谷夕雲(中)


「剣豪の人間形成(6) 無住心剣術 針ヶ谷夕雲(中)」  Ⅱ夕雲の師 小笠原長治(おがさわらながはる 永禄13年/元亀元年(1570年)? - 没年不詳)  真新陰流剣術の開祖。号は源信斎。 直心影流剣術道統4代目に位置づけられ、「法定型四本」(元来5本であった型を4本に編纂)「韜の形」は彼の考案によるものと伝わる。奥山公重(直心影流剣術道統3代目)より神影流を学び、真新陰流を開く。  豊臣秀吉に仕え、小田原の役、大坂の役の西軍に出陣。落城後に明に渡り、矛術を習得して「八寸の延金」の技(理?)を発明した。 帰国後、長治と立合いをした者で長治に敵う者は無かったといわれているが、夕雲が流儀を捨て無住心剣術(夕雲流)を開眼した後の立合いで敗北している。 「八寸の延金」は不敗の技といわれたが失伝し、後世の白井亨(一刀流系)が、自力でこれを復元したといわれているが、兄弟子の寺田五郎右衛門(五右衛門)には完敗し再度失伝し、心法とも技法ともいわれ、現在、心法では気合で相手の打込みを外し抜く法とも、剣が実際よりも八寸長いとイメージすることで、相手には実際にそのように見え隙を与えない法とか、また技法では右手を鍔元から左手よりにすべらせ間合に幅をもたせる技と言われている。  夕雲は源信斎より真新陰流剣術(新陰流)の印可を受けていたと思われる。夕雲が取り立てた弟子二千八百人の中に新陰流の免許を八十三人に与えた。 虎伯大宣禅師  寛永年間の始め、伊勢(鈴鹿)龍光寺虎伯禅師は三代将軍家光公に請われ、芝の金地院に於いて禪書『碧巌録』を講じてよりその名声は一時に高くなり、諸侯を初め知名の人々も日を追って帰依するに至った。  当初、親交のあった幕府の主官医・大橋隆慶法印の宅畔に僅かばかりの土地を借りて小庵を営んで居たが、後に牛込矢来下に官地若干を賜り、ここに一宇を建立して、伊勢と同じく天澤山龍光寺と称し、伊勢(鈴鹿)龍光寺の別院とした。  中でも、特に信仰の深かった京極、小笠原の両氏は廟所を當寺に定め、それにより両氏を当寺の開基とした。明暦二年、此地は御用地となり酒井讃岐守により豊島郡駒込村(現在地)に三千六百坪を拝領し移転改築した。    『伊勢龍光寺誌』より   天澤山龍光寺 宗派 禪宗(臨済宗) 東福寺派   開山  虎伯大宣禅師 (東福寺240世、鈴鹿龍光寺中興24代)   開基  肥前唐津藩小笠原家 三河吉田城主小笠原壱岐守忠知公 讃岐丸亀城主京極刑部少輔高和公   創立  寛永9年(1632)2月 明暦2年(1656)11月駒込に移転    夕雲が禅師に参禅するに至った経緯は不明だが、「小笠原氏は廟所を當寺と定め」とあるので剣師である小笠原長治の紹介かもしれないが不明。禅師との師弟関係は親密だったようで、夕雲が上州伊香保に出かける途中落馬して重傷を負い、左手が不自由になるという事故にあったとき、禅師は夕雲の旅先での事故を知り、見舞いのものを夕雲の元へ送り、そのとき「日頃の剣術手足の動ざる際如何」という口上をこの見舞いのものに託している。それをきっかけに夕雲は大悟し、「無住心剣術」を起こしている。        又、「自分の相抜けは、虎伯和尚について禅を行い、程度の高い公案を十八も透っている。そこから出ている釈尊の精神だ」と言って禅師に信頼をよせている。 霞山 記

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