「剣豪の人間形成(8)二天一流 宮本武蔵(上)」
Ⅰ 宮本 武蔵 略歴 武蔵は天正12年3月(1584年)美作国吉野郡讃甘(さぬも)村宮本(現岡山県)に生まれる。これには諸説あり播磨国印南郡米堕村説(現兵庫県)もある。幼名は弁之助(または弁助)、父は兵法家新免無二斎。時代は豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧長久手の戦があった年であり、秀吉によって全国が統一されようとしていた。 武蔵は幼年の頃、父の剣法をばかにしていた。父無二斎はそれを腹に据えかね、楊枝を削る小刀を武蔵に向けて投げつけた。武蔵はそれをかわすと無二斎はカッとなりさらに小柄を抜いて投げつけた。武蔵はまたかわしあざけり笑ったという。親子ともに気性の荒い性格だったことが伺える。(丹治(たんじ)峰(ほう)均(きん)筆記(ひっき)による) 武蔵13歳のころ播州にて新当流有馬喜兵衛を倒す。有馬喜兵衛は刀槍の達人有馬豊前守の一族であった。喜兵衛は子供の武蔵に挑発させられた。刀をすて両者組合いになると喜兵衛はたちまち武蔵に持上げられて地面に叩き付けられ、起きようとするところを棒で一撃され血へどを吐いて絶命したという。これが武蔵初めての勝負の記録である。 武蔵16歳のころには但馬国の秋山某(新左ェ門)と勝負して勝ったとの記録が残っている。 天下分け目、関ヶ原の戦いでは武蔵は17歳の頃であった。正確な記録はないが敗れた西軍に属していたとされている。 慶長9年(1604年)武蔵21歳、京に上って、吉岡一門と三度にわたる決闘を行っている。吉岡家は代々足利将軍家の師範として聞こえた名家である。一度目は吉岡清十郎との仕合。清十郎は真剣で武蔵は木刀、武蔵は一撃すると清十郎は倒れ、武蔵はそのまま立ち去った。清十郎は門人たちに抱えられ帰り、蘇生したが面目を失い髪を剃り頭を丸めた。 二度目は清十郎の弟伝七郎が武蔵に仕合を申し込んだ。当日武蔵はわざと仕合の時刻に遅れ、相手を苛立たせた。勝負は武蔵が伝七郎を木刀で一撃し、頭蓋骨を割って伝七郎は即死した。 三度目は清十郎の子の又七郎を擁した門人数十人が武蔵に挑んできた。場所は洛東の一乗寺村下り松付近。当日武蔵はまだ薄暗いうちに先行し身を潜めた。また遅れてくるだろうと見込んだ敵の裏をかいて急に姿を現し、一刀のもとに少年又七郎を斬り倒し近くの門人数人を斬った後、すばやく姿を消した。 このあたりの挿話は武蔵死後100年の二天記などによるものだが、自身の書いた五輪書と著しく似通っているため、事実か創作されたものか定かではない。 その後年譜としてはしばらくの空白ができる。武蔵の自書五輪書によれば「国々に至り、諸国の兵法者と行合」っていたと思われる。 霞山 記
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