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剣豪の人間形成(9)二天一流 宮本武蔵(中)

「剣豪の人間形成(9)二天一流 宮本武蔵(中)」


 宮本 武蔵  慶長17年(1612年)武蔵29歳、舟島(巌流島)で巌流の佐々木小次郎と勝負して勝つ。武蔵に関して最も有名なくだりである。武蔵は父の門人が豊前小倉の藩主細川忠興に仕えている縁を頼り、当時剣名高い佐々木小次郎に試合を申し出た。忠興は2人を舟島にて勝負させることとした。 仕合当日の朝、武蔵は約束の時刻8時を過ぎても起きようとはしない。催促の使者が来てからようやく起き上る。それから飯を食い、食い終わると今度は木刀を削り始めた。再び催促の使者が来るにおよび絹の袷を着て小舟に乗り込む。10時を過ぎたころ岸に着くと、木刀を携え素足で波打ち際をゆっくり歩き始めた。小次郎は武蔵を見るや憤然と言う。「なぜ遅れた、臆したか!」武蔵が答えないと小次郎はいよいよ怒り鞘を海中に投じる。武蔵が微笑しながら言う「小次郎敗れたり、勝つものが何で鞘を捨てるのか」。2人は同時に打ち込んだかのように見えたが武蔵の木刀が一瞬早く小次郎の頭を打ち抜き勝負が決まった。武蔵ははるか検使に一礼し木刀を携え、元の舟に乗り下関へ帰って行った。   その後武蔵の史実的年譜は20年近く再び空白となる。その間大阪冬の陣や翌年の大阪夏の陣に参戦したとされているが明確な記録は無い。ただ尾張と出雲にはしばらく滞在していた。この両地方に二天一流が広まっていたことから推察される。 霞山 記

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