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寶鏡庵長野善光老師 剣禅話(3) 剣と禅 総説(中)

寶鏡庵長野善光老師 剣禅話(3) 剣と禅 総説(中)




4 古流の稽古と竹刀稽古  元来古流における各流各派の稽古は、その流儀独特の木刀により、その流儀の組太刀の法式(これを通常形(かた)という)を学ぶことから始まる。この形は流祖が真剣勝負或は木刀試合等で相手に勝った時の心法刀法を、形(かた)として残されたもので近年までは、門外不出の秘密とされて来たものである。  形を指導する側(がわ)を打(うち)太刀(だち)といい、それに対して正しい勝ち方を教わる側を仕(し)太刀(だち)というが、素(す)面素(す)小手で行うから、打突(だとつ)しても一寸の処で止める。又自由勝手に打ち込むと危険なので、一本一本形の名稱とともにその演武法が定められている。  言うならば約束事であって、定められた動きしかできないという欠点があった。そこで徳川時代中頃になって、自由に技を出して打突してもよいように竹刀や防具が発明された。  当初は、長年形の稽古を修練し、目録をもらった者のみに形稽古の応用として、竹刀稽古が許されていたものであるが、いつしかその原則が崩れて急速に普及し、形稽古は次第に無視されて、時代とともに剣道といえば竹刀稽古となり、試合が中心となって心の修練が忘れられることとなった。  この反省にたって、昭和50年に全日本剣道連盟では、『剣道の理念』を制定して正しい剣道の普及につとめている。その理念に曰く【剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である】と。禅の修行も人間形成が目的であるから、剣道も禅もその修行目的は全く同じなのである。 5 古流の教え  武士が戦場に出て充分な働きをする為には、生死の問題を正しく解決しておかねばならない。鎌倉武士の多くが禅に参じたのもそのためであった。  古流は敵を倒す前に、己の迷い即ち剣の四戒「恐懼疑惑」を断つことが、先決であると教える。元寇の折 祖元禅師(佛光国師)は、時の執権北条時宗が臆病心の出処と退治法を問うた時、言下に、“時宗より來る。來日時宗を殺し來たれ!看ん!!”と喝破された。剣の修行も迷いの根源たる相対的自己を一刀両断するのが土台である。 これは禅門における大死一番して虚妄の小我を殺し、絶後に「天上天下唯我独尊」と絶対の大我に再蘇することと全く軌を一にする。  そして、そこから自由に働き出すのが道に叶うわけである。 正受老人の師である至道無難禅師のお歌に 生きながら 死人となりてなりはてて 思いのまゝに 為すわざぞよき】と。  古流の形は真剣勝負から工夫されただけあって、その教えは深く、生死の問題を解決する禅の教えと一致する処が多い。 そういうことから、古来武将とか剣の名人で、禅門に参じた者は大勢いるが、歴史上有名な人の中から拾うと次の通りである。  北条時宗(執権)=祖元禅師、 楠正成(武将)=楚俊禅師、 菊池武時(武将)=大智禅師、 宮本武蔵(二天一流)=春山和尚、 柳生宗矩(柳生流)=澤庵禅師、 針谷夕雲(無住心剣法)=虎伯和尚、 大石良雄(忠臣蔵)=盤珪禅師、 寺田五郎右衛門(天真一刀流)=東嶺和尚、 山岡鉄舟(無刀流)=滴水・洪川・星定の各禅師。  その他武田信玄・上杉謙信・西郷隆盛・勝海舟等々と枚挙にいとまがないほどである。 (「人間禅」第164号より転載)

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