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執筆者の写真宏道会案内人

早く正しい道に入っていれば… 小川忠太郎先生剣道話(14)

小川忠太郎先生剣道話(14)~早く正しい道に入っていれば…~


この間、鉄舟寺へ行った。50年前に一度行ったことがある。

その時、私は25、6だったかな。お墓の前には、高山樗牛の言葉が書いてあってね。「吾人は須く現代を超越せざるべからず」。


みんな知ってますか?知らない?

やっぱり残らないんだね。僕らの時代は有名でしたよ。でも、本物じゃないから残らない。


天才と言われたもんだ。東京大学の哲学科を出てね、東大の講師と二高の教授か何かやったんじゃなかったかな?


どんどん認められてね、31歳の時に英国、ドイツに留学を命ぜられた。その頃政府から留学を命ぜられるということは余程のことだった。


明治4年生まれで32歳で死んでる。肺病だった。肺病になって2年ぐらいでなくなったのかな?その頃、天下に名前が鳴り響いていた。


ところが、説が変わるんだね、学説が。だから生徒が困る。化け物だと言う人もいたし、気違いだと言う人もいた。そういうふうに悪口も言われた。


頭のいい人だったが、肺を患ってからそれでは済まなくなった。命の問題だからね。

それで宗教に興味を持って、日蓮の研究を始めた。それから自信がついたって言うんだね。「日本には、和気清磨呂(わけのきよまろ)、楠木正成、豊臣秀吉などが出たが、私はああいう人たちは何とも思っていない。日蓮を産んだ日本という国に生まれたことは幸せだ」と言っている。


日蓮宗は悪いものじゃない。立派な宗教だからな。それは良いことでしょうね。しかし、あれだけの天才が31まで遠回りしていたことは勿体ないな。


もっと早く、20歳ぐらいで正しい道に入っちゃえば、これは偉いものになるよ。

だから、学問というものは、筋が悪いと苦しんじゃう。

高山樗牛はいい例だな。


空海。ああいう人は偉くなるよ。早くいい道に入った。そういうタイプがあるよ。


やっぱり、あの当時だったかな。藤村操という人がいた。一高の学生だった。

「人生は不可解」と言って死んでしまった。


「人生は不可解」だと言うぐらいのいい頭で突っ込んで行ったら、これは偉いものになるね。

藤村操という人も天才だろう。正しい教えに早く会わないとな。

勿体ない。自分が迷ってるだけだよ。


(以下略)


昭和55年3月

『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より


令道 記

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