小川忠太郎先生剣道話(7)~目標は自分を忘れた状態~
剣道の初めは一人。相手はない。この一人というのは、天地一杯になった一人。一刀流では、大正眼に構えた一人。この構え。ここから出ている。
相手なんかありはしない。ここをしっかりやる。
昔は「打ち込み3年」で、しっかりやったから「手の内」が出来る。今はこれが足りない。
これが出来たら、相手を作って、相手と対峙して稽古する。対峙しておっても相手に執着しない。
これが途中の修行です。
そして、最後はどこへ行くかというと、最後はまた一人になっちゃう。
一刀流では最初は大正眼。そして五点の最後は「引身之本覚」。「ジーッ」。自分に収まっちゃう。相手がない。
途中では相手がある。こういうことなんだ。
皆、この最初の大正眼の修行が足りない。自分一人の修行が足りない。
(中略)
どうしたら右手の力が抜けるかを「形」の上でも研究する。稽古の上でも研究する。
そして、本当に右手の力が抜けた状態がどういうものかと言うと、自分を忘れた状態。
自分が無いと言うんじゃない。自分を忘れた状態。ここへ持っていかなくてはいけない。
自分を忘れているから、一番楽なんだ。一番変化が効く。楽だから相手も見える。右手の力が抜ける。つまり、右手は卵を握ったように。自己を忘れている。
それを山岡先生は「無刀」と言っている。
無刀と言うのは、刀を持っていないということじゃない。刀はあるんだ。「力み」の無いところ。これで「スーッ」と。これが出来なくちゃいけない。
素振り、切り返し、掛かり稽古、そういう基礎でそういう本体をつくる。
右手なんかに関わってちゃ駄目だ。打ち込み3年で、自分の身を捨てる修行をする。
捨て身なんだ。
そういう段階だから、みんな、今一番骨の折れるところだけれども、そういうことを頭に置いて、切り落としを覚える。形と稽古によって、切り落としを覚える。
・・・剣道の敵はどこにあるかと言うと、自分だ。自分がつまらない力を入れているんだから。
(以下略)
昭和55年2月
『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より
令道 記
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