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続、「一杯」になる 小川忠太郎先生剣道話(45)

小川忠太郎先生剣道話(45)~続、「一杯」になる~

○○先生はだいぶいい。 やはり坐っているから。 (ただ)○○先生も本当に一杯になっていれば、相手が入ろうとすれば突けるわけだ。 突けないのは駄目なんだ。 「はたらき」が出来ていない。 自分では「一杯」のつもりでも、手足が働かない。 「スッ」と手を出せばいい。 なんでもないんだ。 それを黙っているから、入られる。 その「針の先で突いたようなところ」を研究する。 そうすると、グングン伸びる。 そこで大事なのは「一杯」ということ。 言葉をかえれば「三昧」ということ。 つまり、「成り切る」ことだ。 そういう修行をすると、あんまり稽古をしなくても、そこへ行く。 三昧の稽古さえすれば、剣道は進む。 剣道では「三昧」という言葉は使わない。 「一杯」という言葉を使う。 一杯と言っても三昧と言っても同じです。 その内容を平素修行する。 それで、その「一杯」ということが「大事だな」と自覚すれば、しめたもの。 そこをしっかり修行しなくてはね。 その手段が「法定の形」であり「一刀流の形」なんだ。 そういう大事なところを取り外さないように。 当てっこじゃない。 当たるか当たらないかは、結果なんだ。 当てっこなら、ごまかしても打てる。 道具を着けていれば、命に別状ない。 そんなことは意味はない。 「本体」を「ズーッ」と養う。

これが剣道の修行。 昭和56年8月 (『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より) タイトル、構成、()内…栗山令道

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