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自分も相手も無い…そこが修行 ~小川忠太郎先生剣道話(61)~

「初太刀は千本の価値」と言われる。初太刀で真剣になれば、剣道はもう終わりなんだ。初太刀一本の中に何でもある。この初太刀に雑念が入るか入らないかの勝負なんだ。 状況は自分も相手も同じなんだ。剣道の有り難いところは、雑念が入った証拠に右手に力が入る。自分では入れてないつもりでも、どこからか涌いてくる。それが右手に出る。 どういう気持ちかと言うと、「打とう」という気持ちだ。打とうと思っているだけでは雑念だ。打とうと思った時に「パッ」と打っているのは雑念じゃない。これは「正念」。これを初太刀で研究する。 相手を意識すると、初太刀が取れない。相手を意識しただけで雑念になっちゃう。相手があれば駄目なんだ。 それから、自分の心が乱れておれば、初太刀は取れない。つまり、自分が正念でなければ取れない。 自分がない。自分がなく相手が無ければ、あとは自然に行く。そこが修行なんだ。これを禅では「禅定(ぜんじょう)」という。……内が乱れないのが「定」。そこにはまればいい。 座禅でいう「禅定」。ここが一番盛んなところ。ここが最も強い。そこへ入る修行をする。どんなに骨が折れても、ここが自分を形成するのに大事なところ。 これを、一刀流では「切り落とし」という。 初太刀の時に、相手に雑念があって打てればいいが、打てない場合でも「グッ」と攻勢に行く。これが大事だ。「ボヤー」としているんだもの。これは「死物」だ。これじゃ駄目だ。「グッ」と行く。これが技になって行く。……この本体をだんだん養っていけば、それが一本になる。 この本体を養う手段にいろいろある。切り返しもある。掛かり稽古もある。地稽古もある。そして、形もある。そういうものすべてが初太刀におさまる。 だから、地稽古は初太刀一本だけやって止めちゃってもいい。 酒井さん(注1)は面白い人で、私のところへ来ると、お面を一本やっておしまいにする。当たりはしないんだけどね。それでも剣道になっているんですよ。 「ズーッ」と来て、一本突っ込んでくる。それで止めちゃう。それが剣道だ。一切は初太刀だ。初太刀が終われば、次の初太刀だ。 (中略) 初太刀はどこが大事かというと、蹲踞(そんきょ)したところ。立ってからじゃない。蹲踞したところから決まったまま立てばいいんだ。ここをつかまえなくっちゃ。 双葉山(注2)なんかここだ。仕切るところで決まりだ。立った時はいつでも「先(せん)」になる。それが初太刀です。蹲踞からいい加減に立って、「面」なんていうのは剣道じゃない。 蹲踞から「ジーッ」と、初太刀に集中して稽古していくと、ぐんぐん上達する。 注1) 酒井章平。加藤完治先生の愛弟子。料理研究家。小川忠太郎先生御逝去後は、数年間茨城県内原から宏道会まで法定の御指導にお見えいただいた。 注2) 戦前戦中に活躍した大横綱。69連勝は現在も破られていない。 昭和57年2月28日 宏道会剣道場述 (『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より)


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