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雑念が入らなければ相手が写る ~小川忠太郎先生剣道話(60)~

形(カタ)だけだって、剣道の本当のところへ入れるんだな。そのいい例が寺田五郎右衛門という先生。形だけ。 寺田先生の形は良かったらしいな。寺田先生の形は、ほとんど雑念が入らないんじゃないかな。大したものだね。雑念が入らなければ、相手が写る。 何か動作をする前には考えが出るんだから、動作する前に分かっちゃだめだ。面を打とうと思うと、寺田先生に「面にくるとすりあげるぞ」と言われて、もう打てない。打とうと思うとそれが寺田先生に分かっちゃう。 寺田先生は、そこまで行っている。何人相手を代えてもそうだったっていう。(注) 雑念が入らないから出来る。偉いもんだね。相手があってそうだ。相手は何をするか分からない。それが本当の形だ。(防具をつけた打ち合いは)約束動作でくるんじゃないんだから。どこへくるか分からないんだ。よく修練したものだね。 この人は、最後は白隠禅師の高足の東嶺和尚に参禅している。 今の剣道は、道具をつけてやっているものだから、剣道で自分を修練するんだというところに気がつきにくい。「当てっこ」だと思っているんだ。 相手の欠点だけ指摘する。それじゃだめなんだ。自分の修練。そこに気がつかない。 そこに気がついてやったのは、持田先生(持田盛二十段。小川先生の師)だ。稽古で打たれると、自分の欠点を教えてもらったと、感謝する気持ちだと言うんだから。 相手に打たれると「ああ、有り難い」と感謝する。そして自分の欠点を直す。それが剣道ですよ。 それだから、稽古がどんどん上がっていく。なかなかそれは出来ないね。普通は、自分が打ったのは良くて、相手の打ったのはだめだと思う。それだとだめになっちゃう。 持田先生は寺田先生みたいだな。考え方がね。だから、持田先生は道具をつけた稽古だけで、あそこまで行った。 (注)…江戸時代後期、寺田が形の指導をしていた中西道場では、当時竹刀稽古と形稽古の優劣が盛んに論じられていたという。 竹刀派の門人が、形稽古だけで防具稽古をやらない寺田に防具をつけた立ち合いを強く希望したのに対し、寺田は「強いて望みとあれば、自分は素面素小手で相手をするので、君たちは防具をつけて遠慮なく打ち込むがよい」と、相手の防具と竹刀に対し、素面素小手と木刀で応じたことによる。 昭和57年2月14日 宏道会剣道場述 (『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より


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